日文献の闇は、色んな意味で、全く濃い。

自らの基本を表現する業者において、会員の驚嘆や共感を受け取れるという
手が、戦後、近藤達が続けてきた短歌です、ということなのだ。
短歌が実名の文学であり、そこにただ一つの「面持」(他者の面持ではなく、
筆者自らの面持)が思えることが設定です、とされてきたのも、そこに
元祖するだろう。

無論、そんなことを不独自多数の前で積み重ねることは、殊更、時代を
経たこの世、誰にでもとれる結果はないし、時代に応じて因習も変化始める
のだから、人気の芽生える短歌のレシピだって変わってきて当然ある。

だから、ウケをねらうというキモイ手による歓びや、
文学とは分離した狂歌的風刺へと通う作だって、堂々とまかり通る。
当然、ものが言い辛い時代になりつつある今回、そんな中にさりげなく
何かを含ませる、ということもまた、一つの作戦としているのだろうけれど。

それから、座の文芸」です和歌から派生してきた短歌であるから、勿論、
「本歌受け取り」等の技術や遊戯の題材は、高度なテクニックとして許容され受容され
る要因ですが、現代の詩のはじめクラスとしての短歌である限りは、断然
譲れないはじめ線というグッズもあると想う。古くさいかなあ。

企画停電で思い起こしたのだけど、中央アジア等では、企画停電は、
震災時代ではなくても、極普通に日常みたいに行われているのだみたい。
停電を取り分けるのではなく、電気の充填を、エリアごとにはじめ日長時間ずつ
割り振っていると言う。僅少人種の村ぐるみ虐殺も、依然として多いらしいが、
知らせされないので誰も知らないらしき。

12月7日の渋谷駅舎。
前日のプライベート法の強行採決に抗議するデモンストレーション隊とすれ違った。
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